医療現場からの物語。患者とその家族、医療従事者を繋ぐ海外コミックスの新潮流「グラフィック・メディスン」の代表作。
『テイキング・ターンズ HIV/エイズケア371病棟の物語』
書名:Taking Turns: Stories from HIV/AIDS Care Unit 371
著:M. K. Czerwiec
発行国:アメリカ合衆国
発行年:2017年
ジャンル:外国文学・コミック
ISBN:978-0-271078-18-2
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著:Mary Kay Czerwiek(MK・サーウィック)
1967年生まれ。イリノイ州シカゴ郊外にあるノースウェスタン大学フェインバーグ医学部に勤務。ロヨラ大学(イリノイ州)英文科卒業後、ラッシュ大学にて看護師の学士号取得。ノースウェスタン大学大学院医学人文学・生命倫理学研究科にて修士号を授与。1994年から2000年までHIV/エイズケア病棟看護師として勤務。2000年からは自身のウェブサイトを中心に「コミックナース」の名前で作品を発表。2007年からはイアン・ウィリアムズと共にグラフィック・メディスンの活動を展開。グラフィック・メディスンの概念を提唱した共著『グラフィック・メディスン・マニフェスト マンガで医療が変わる』(北大路書房、2019)はこの領域の基礎文献となる。他にも、女性アーティストによる新しい表現の可能性を探る「Laydeezdo Comicsプロジェクト」に参加(ロンドンを拠点とする当プロジェクトの米国シカゴ支部のコーディネーターを担当)。
本書『Taking Turns(テイキング・ターンズ HIV/エイズケア371病棟の物語)』(2017)は長編グラフィック・ノベルの第一作である。編著として女性コミックス・アーティストのアンソロジー『メノポーズ マンガで扱う更年期』を2020年8月に刊行。

エイズが死に至る病だった1990年代前半
HIV/エイズケア病棟で働く医療従事者、患者の物語


 本書は著者自身による1994年から2000年までのHIV/エイズケア病棟での看護師勤務経験に基づく回想録(グラフィック・メモワール)であり、さまざまな関係者の証言を織り交ぜて製作された「グラフィック・ドキュメンタリー」としての側面も併せ持つ意欲作です。HIV/エイズに特化した緩和ケア病棟として創設された371病棟では、死と隣り合わせの患者と接する日常がくりひろげられています。エイズに対する恐怖がパニックを引き起こしていた1990年代当時の貴重な証言の記録にもなっています。担当患者が数か月から数年で亡くなってしまう中での看取りを、新米看護師がどのように感じ、どのように向き合っていたのかも読みどころになるでしょう。タイトルである「Taking Turns(テイキング・ターンズ)」には「代わりばんこに」という意味が込められていますが、医療従事者も含めて誰しもが患者の立場になりうることを表しています。著者が推進する「グラフィック・メディスン」は医療をめぐる包括的な概念でありコミュニケーション・ツールとして医療現場にマンガを導入する試みでもあります。マンガを媒介に医療や健康について物語る「順番(ターン)」は読者である私たちにも開かれているのでしょう。


 

 


<「グラフィック・メディスン」とは?>
 「グラフィック・メディスン」は、医学、病い、障がい、ケア(提供する側および提供される側)をめぐる包括的な概念であり、数量化による捉え方(一般化)が進む中でこぼれ落ちてしまいかねない「個」のあり方に目を向け、臨床の現場からグラフィック・アートまでを繋ぐ交流の場を作り上げようとする取り組みです。その一環として、マンガをコミュニケーションのツールとして積極的に取り上げたり、マンガの制作を通して気持ちや問題を共有したりする活動が行われています。本書『テイキング・ターンズ』はまさにそのような文脈の中から生まれた作品です。本書の著者、MK・サーウィックやイアン・ウィリアムズらを中心に2007年にウェブサイトを通じて発足し、2010年以降は年次国際学会も開催されています。コミックス・アーティストの講演、事例報告からメディカル・イラストレイターを招くワークショップまで多彩なプログラムで構成されています。それぞれの専門領域は個々に進展していながらも他の領域の状況が見えにくくなっている中で、さまざまな分野が横断するプラットフォームを形成し、それぞれが自分の声を見つける成長共同体を目指す姿勢にこそ21世紀型学術交流のあり方としての特色があります。本書の著者を含む中心メンバーによって刊行された『グラフィック・メディスン・マニフェスト マンガで医療が変わる』(北大路書房、2019年)にて、その概念と理念が提起されています。


2019年国際グラフィック・メディスン学会にて、著者のMK・サーウィック


医療現場を包括的な視点で描く
「グラフィック・メディスン」の可能性

発起人:中垣 恒太郎(なかがき こうたろう)より

 本書の回想の舞台となる1990年代前半はエイズに対する恐怖がパニックを引き起こし、同性愛者に対する偏見や差別とも結びつけられていました。本書はこうした状況の中で専門病棟看護師として勤務していた著者による回想録(グラフィック・メモワール)です。さらに医療現場をめぐる「オーラル・ヒストリー」として、さまざまな証言を織り交ぜることにより、当時のHIV/エイズ緩和ケア病棟がどのような状況であったのかを示す貴重な証言集になっています。死の恐怖と隣り合わせにいる患者のケアを任された医療従事者としての視点から、素朴だが味わいのある絵柄で状況を淡々と綴るところに本書の特色があります。語り手は観察者として、聞き手として、記録者としての役割に徹しており、その胸中をめぐる描写は極力省かれているのですが、看護とは何か、医療とは何か、生きるとは何か、など私たちに多くのことを考えさせてくれます。

 日本のマンガ文化は豊かで幅広いものであり、日本でも医療をテーマにした多様なマンガ作品がジャンルとしての「医療マンガ」として注目されてきています。産婦人科、放射線科、麻酔科、病理医などチーム医療のあり方を反映し領域も細分化してきていますし、エッセイマンガも幅広く発展してきています。本書はそうした豊饒な日本のマンガ文化と比してもユニークであり、淡々とした描かれ方でありながら人生をあるがままに受け入れる懐の深さが感じられます。異質な味わいを持つ海外マンガのスタイル、テイストを参照することで、マンガ文化全般をさらに楽しむことができるでしょう。

 「グラフィック・メディスン」の中心メンバーであり、看護師であり、コミックス・アーティストである著者によるマンガの表現をどのように活用できるかをめぐる独自の試みが本書です。看護師の視点、同僚である医療従事者の視点、患者の視点などがさまざまに交錯しながら物語は展開していきます。1990年代のHIV/エイズを取り巻く時代背景も描きこまれています。駆け出しの看護師であった著者自身の回想録(グラフィック・メモワール)であり、1990年代におけるHIV/エイズ病棟をめぐるさまざまな証言を記録したドキュメンタリーでもあります。近年、マンガを用いたドキュメンタリー表現に対しても関心が高まっており、本書は「グラフィック・ドキュメンタリー」としての観点からも注目すべき作品の一つです。感動的なドラマを演出するような盛り上げ方とも異なる淡々とした筆致、内面描写をできる限り排しながらも語り手の視点を通してさまざまな「個」の人生や証言を織り交ぜるスタイルは、世界のマンガ文化のみならず、ドキュメンタリーの新しい可能性を探る観点からの注目も期待されます。

 著者はアメリカ人女性アーティストであり、ジェンダーやセクシュアル・アイデンティティの多様性にまつわるマンガの可能性を探る実践者でもあります。アメリカのマンガ文化としては、アメリカン・コミックスのイメージが強いですが、オルタナティブ・コミックスと称される系譜もありそのあり方も多様です。特に近年では女性アーティストによるグラフィック・ノベルが目立った動きを示しています。ジェンダー、セクシュアリティの観点から本書を捉えることも有効でしょう。


 医療崩壊の懸念が高まるコロナ禍の現在(2020年8月)、医療現場を包括的な視点で繋ぐ本書の実践的な試みは医療とマンガにまつわるさまざまな示唆をもたらしてくれることでしょう。ぜひ多くの皆さんとこの作品の魅力を共有できますことを願っています。


中垣 恒太郎(なかがき こうたろう)
1973年広島県生まれ。専修大学文学部英語英米文学科教授(アメリカ文学・比較メディア文化研究)。日本グラフィック・メディスン協会代表、日本マンガ学会海外マンガ交流部会、女性MANGA研究プロジェクトなどに関与。米国と日本を軸にした女性のマンガ表現をめぐる比較メディア文化研究、英語圏で注目されている「グラフィック・メディスン」の動向を踏まえた医療マンガの比較文化研究に関心を寄せている。
著書として、『マーク・トウェインと近代国家アメリカ』(音羽書房鶴見書店、2012)、『アメリカン・ロードの物語学』(共編著、2015)、翻訳に、『ポケットマスターピース マーク・トウェイン』(柴田元幸編、集英社文庫、2016)などがある。メディア芸術カレントコンテンツにて、「人生を豊かにするための『グラフィック・メディスン』――『医療マンガ』の応用可能性」を連載中。